安達太郎
二本松市

 昔、田地が岡に安達太郎という人が住んでいました。この奥方は飯坂城主佐藤氏の娘照姫というとてもきれいな人で、四歳になる子供もおり平穏な暮らしをしておりました。

 この頃、京都から派遣された多賀城の国司は色好みで、国内の美女を我がものにしようと、常に非道をして困らせておりました。そして、飯坂城主佐藤氏に「田地が岡の安達太郎の妻はおまえの娘で、たいそう美人と聞いた。その娘を私にくれ。」と差し出しを命じる無理難題を申しつけたのです。

 佐藤氏は、思いあまり、婿を殺して、娘を差し出すほかはないと考えて、太郎夫婦には自分が病気と偽って、二人を飯坂城に招いたのです。照姫の付き添いの賢い腰元が謀を見破り二人に危急を知らせたので太郎は大いに驚き、照姫を連れて帰ろうとしましたが、すでに田地が岡は多賀城の家来たちによって占領されてしまっていました。

   そこでやむをえず、安達太良山の山奥にしばらく隠れ潜んでいました。やがて都に出た安達太郎は、この国司の数々の悪行を都の役所に訴え出たので、国口は流罪の処罰を受けました。

 時が過ぎ、安達太郎は再び田地が間に戻り安達の郡司となりました。

 この話は、畠山氏三代目の畠山国詮 (幼名大石丸)が幼少のころの一つの伝説であるともいわれています。伊達行朝事暦によれば、この田地が岡を「国司館」と呼び、国司北畠顕家が居館していたとも伝えられています。さらに源頼朝の奥川平泉征討の時には、小野田藤九郎(安達盛辰)も居館し「殿地が岡」とも呼んでいましたが、今は田地が岡といわれています。

  1/1 地図に戻る