玉絹物語
本宮市(旧白沢村)

 今から約七百年の昔、正覚という一人の若い修験者が岩角山に草庵を結び、里を巡り信仰を説き、養蚕と機織り技を教えて貧しい里人に生きる喜びを伝え救済に努めておりました。当地の地頭和田宗基は、妻に先立たれ、日夜酒食乱行にふけり、里人に過重な年貢や婦女子を我がものにし、その横暴は目に余るものがありました。衣食に事欠き、身を滅ぼした里人たちの怨霊は白蛇となって、宗基を滅ぼさんと館の岩に群がって崩してしまいました。これが「蛇舐石」といわれています。

 宗基に玉絹という一人の娘がありました。玉絹は、ひそかに貧しい里人に衣や金品を施し、機織りの手伝いをして、父の罪のつぐないを一生懸命続けました。正覚も玉絹の心根にひかれ、二人にはいつしか愛が結ばれておりました。玉絹の教えた草木を染色に使った模様の織物は素晴らしく、遠くからも買い注文があり、暮らしは次第に楽になりました。

 

 ところが、宗基が重い税をかけたので、正覚は苦しい生活を訴え、税の軽減を懇願しました。宗基は「無知な百姓どもを惑わす悪僧め、死刑にする。」と石牢に入れてしまいました。その夜玉絹が牢を開き「今すぐ私を連れて逃げてください。」と頼みましたが、「いや、地頭殿とて悪人ではない。私一人の死で多くの里人を救えるなら……。」と白衣の袖を裂き、月の光で「恋しくば南無阿弥陀仏と唱うべし 我も六字の中にこそあれ」と詠んで玉絹に渡し、翌日刑場の露と消えました。正覚亡き後、玉絹も花水山麓の池に身を沈めてしまいました。母の遺品の数珠を手に、正覚の一首を胸に抱きしめた玉絹の死の姿は、里人には尊い御仏の姿に見え、非常に悲しみ惜しみました。さすがの宗基も、愛娘の死によって目覚め、その後供養碑を建て、善政を行ったといいます。

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