遠藤盛遠(文覚上人)巡錫の地
本宮市(旧本宮町・旧白沢村)・大王村

また、当時国の政治を司っていた平家は、「平家にあらずんば人に非ず。」との勢いで、平家の武士どもが国を守ることを忘れ、世の中が大変乱れておったところから、盛遠はここで世の平安を祈ったのです。以来、この山一帯を土地の人々は錫杖山と呼ぶようになりました。

 錫杖山で修行を重ねた盛遠は、さらに北へ行き杉田川を安達太良山の中腹まで遡り、深山霊谷の中で滝に打たれ荒行を重ねたのです。以来この滝は遠藤ケ滝と呼ばれるようになったのでした。

 この地で盛遠は、阿武隈川の東側に徳一大師が創建した寺のあることを知り、彼の地へ向かったのです。阿武隈川を渡り、山を登った盛遠が見たものは、すでに荒れ果てた寺だったのです。それで盛遠ほ、この寺の再興に努めました(現自沢村・高松山観音寺)。

 

 この高松山から見えるものは、自分が修行を重ねた殕森の山々や、荒行を積んだ遠藤ケ滝を懐に包み込む雄大な安達太良山と安達の里の広がりを持った大自然でした。

 旅の修行を終え、都に還った盛遠は文覚上人と言われる位の高いお坊さんになりましたが、後自河法皇に不敬の罪で伊豆国に流されてしまうという運命が待っておりました。

 当時,伊豆国には流刑中の源頼朝が悶々とした日々を過ごしておったのです。全国を行脚し、修行を重ねつつ世の中を悪さに見てきた文覚上人ほ、流刑の身にあった頼朝に向かって「国の政治を司っている平家が、自分の世とばかりに遊び惚けている。地方では群盗がはびこり都には野盗が出て夜は出歩けないほどで、世の中が大いに乱れている。平家を倒すのは今以外にない。」と源氏の挙兵を促しました。

 これが源氏の旗揚げの物語であり、源平合戦の幕開けになったのです。

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