藤原実方朝臣と五百川物語
本宮市(旧本宮町)

 それは、長徳1年(995年)のことです。左近衛中将まで昇つた歌人の藤原実方朝臣は、殿上で大納言藤原行成と口論の末、笏で行成の冠を打ち落としてしまい、そのことが一条天皇の勘気にふれ、天皇より「陸奥国の歌枕をみてまいれ。」と命じられ、陸奥守に任ぜられ几三諸。坂上邦別・橘熊雄・大伴豊掲・小野荒金・田口八潮・金幸軍。笠数鹿の八人の従者を従え陸奥国に旅立ちました。

 実方は、遠く京の都から陸奥国へ下向の道々大小の川を渡り、そのことを帳面に記しながら五百番目の川の里、当地にたどり着いたのでした。これが五百川の名称の起こりです。

 当地では五百川の上流の横川(郡山市)に舘を構え、そして松幌山(現本宮町大宇小屋館山)に別邸を造り住み、都からのよい報せを待っておりました。春三月、松幌山の別邸で都から従ってきた家臣どもと共に杯を交わしながら、ここからの眺望と自身の心を次のように詠んでいます。

 


 蕩々流水 豊々苗田 仰望上天 天徳恢々 牛馬絡繹
 吾懐悠々 人家綿連 浮雲未尽 俯臨下上 長蔽帝州

 この歌から岩根の古い地名(現本宮町大宇岩根の一部)の苗代田が生まれたと伝えられております。

 ある日、実方が五百川の上流を探索に出掛けたとき、豪雨に遭い体をこわし別邸に担ぎ込まれましたが、それがもとでこの地で亡くなってしまいました。それほ、長徳4年(998年)12月12日のことでした。

 その後、夫実方を慕って夫人の重児女臈が、遠い陸奥国にたどり着きました。しかし、その時すでに実方は他界した後だったのです。その折りに重児女臈が詠まれた歌は

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