吾背児鵝影乎六栖比志水泡叙常於保布袂波先比如爾鶏利
夫人は嘆き悲しみの日々を過ごしましたが、食を断ちやはりこの地で亡くなりました。
実方が他界したとき、里の人びとが実方朝臣の徳を慕って従者八人と共に、帳付大明神として五百川流域の村々に、七宮を建てて祀りました。美しく清い流れの五百川をいつまでも守るように、猿田彦命を神に戴いて祀るようにとの実方の願いでもありました。
それらのお宮は、高倉(郡山市日和田町)、新居(本宮町大宇荒井)。太田(本宮町大宇青田)、苗代田(本宮町大宇岩根)、各地(本宮町大宇仁井田)、
羽瀬石(本宮町大宇岩根)、横川(郡山市熱海町横川)でした。しかし、明治以後これらの帳付大明神は、横川・青田の他は、それぞれ村社や地域の神社として地域の名称の神社に改称されています。
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☆藤原実方は当地方の歌枕では次のように詠んでいます。
〔後拾遺和歌集第十九 雑五 かたらいける人のもとにみちのくより弓をつかはすとてよみはべる〕
みちのくのあだちの真弓君にこそ思ひためたる事もかたらめ
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