閑哉竹
二本松市(旧岩代町)

 渡邊閑哉翁 通称は儀右衛門名 は朴 宇は希哲 松斎又は霞峯と号し隠居して閑哉といった。下長折村(現岩代町下長折)の名主渡邊章の第四子である。幼少より学を好み年六、七オにして能く繪双紙、軍書類などを愛読した。

 稍々長じて相生集の著者大鐘義鳴、仙台の奇傑・大屋士由などと学を共にした。十六才の時二本松藩の儒学者渡邊竹窓の門に入り漢字を教わった。朝タ往還の途上にても読誦を続けていたという。翁十九才の時、当郡の布沢村(現東和町太田)が疲弊して一村総くずれになりそうになった。これを救済することは到底容易な業ではないと村人たちは願いを託して閑哉金を名主に抜擢した。

 閑哉は早速村人を集めて復興の計を授けた。それは「怨・を言うな、よく働け「ということであった。三、四年にして村はめっきり善くなってきた。さらに人の心は和らいできた。

 

閑哉は、元の名主の近親である菅野氏を後任に推薦して、自分は役を罷めて自分の村に引退した。その後は晴耕雨読であった。一八二九年(天保十)伊勢参宮に出かけ、伊勢から大和、京、大坂、四国、九州までも遍歴し、その道々であらゆる事物、事象を研究した。

※ジャガイモ栽培の奨励(閑哉芋)

※明治初年嶽温泉を元嶽から深堀に引いたのも翁の測量設計によったものである。

※安積平野開墾に着眼して安積疎水開発の糸口をつくったといわれている。

※一八四九年(寛永二)、当時の名主の無理非道の振舞、負債のため鈴石村(現二本松市鈴石)に暴動が起こり、その後始末として名主を引受け、財政を短期間で復興させた。

 

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