弁慶と満福寺
二本松市(旧安達町)

寺の僧は、
「吉祥院というだけで山号も寺号もないのです。」
と答えました。弁慶は、
「それでは私がお昼をご馳走になったお礼に名づけてあげましょう。ご飯を出していただいておなかがいっぱいになりましたから、飯出山満腹寺ではいかがでしょう。」
「有名な弁慶殿に名づけていただいたのですから否応もありません。大変結構でございます。」
と寺の憎はお礼を申しました。

 それ以後この寺は飯出山吉祥院満腹寺というようになり、この辺りを飯出というようになりました。

 寺の名前がついてから二百年が経ちました。

 田地が岡の畠山二代目国詮は、祖父高国、父国氏の法事を満腹寺で行い、嘉慶堂を建てて地蔵菩薩を安置しました。

 

そして鎌倉腰越の竜護山満福寺の偉いお坊さんにお経を読んでもらいました。この満福寺は弁慶寺とも言われ満腹寺とは大変に関係があると国詮は考えたからでした。この時から満腹寺は満福寺になったということです。

 今からおよそ百年前「日本派宗史匠」と言われた俳人正岡子規が、芭蕉の「奥の細道」の跡を訪ねて東北地方にやって来ました。その時満福寺に立ち寄りました。子規は住職の蓮阿上人と大変に息が合って勧められるままに寺に泊まって行きました。子規はタ食をご馳走になりながら寺の由来を問いて即座に、
 水飯や弁度殿の食い残し
と詠み、二人で大笑いをしました。また、この句の他に数句詠んでいます。本堂入り口前には
 寺に寝る身の尊さよ涼しさよ
の句碑が建立されています。

  満福寺には高村光太郎の妻智恵子の生家である長沼家のお基があります。

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