かま石の由来
二本松市(旧東和町)

 夜の明けるのを待って、義家は勇気百倍、主従ともども兵糧として粟餅を戴き別れを告げ、弁才天にこもり勝利を得た。

 それから平和の年が続き、戦いの事も忘れるようになった或る年、病がはやり、この家の一人が熱を出し、明日をも知れぬ命となった。その時、かまどの上に幻のように義家のの立ち姿が現れ、「病気は心配するでない。頭を冷やし体を温めれば三日の内には熱が引け命はとりとめるであろう。」と言うと、姿が見えなくなった。その後、三日以内に熱は下がり、元気になったという。

 

 天保時代になって、かまどが家の中にあっては何かと不便だというので、かまどを家の外に出したところ、火災にあって住家は全焼した。これは、かまどの祟りであるということになり、住家改築の折、家の中に入れたという。今でも筍を掘る時など焼十が出てくる事がある。その後、明治七年に住宅を新菜する時も外に出しては災難を受ける事を恐れ、家の中に入れたまま建築したという言い伝えがある。

 その後、家の中にあってはかえってお粗末になりはしないかとの信仰心から昭和の初期、家の裏山に祠を建て、産土神として祀った。

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